こどもちゃれんじぷち留年 3歳

いよいよ3歳になった。

子供に障害があることがわかってから、何をすればいいのか全く分からず手探りでやってきた。共働きなので手続きはほとんど妻にまかせっきりで申し訳なかった。

私といえば、とにかく気分はずっと落ち込んだままだったので仕事は全く手がつかず、毎晩酒を飲んで浄化していたが全然効果はなかった。

児童発達支援というのが世の中にあって、発達障害がある場合には利用できる事。

療育手帳というのがあってあると、色々と公的・私的な支援を受けやすい事。

全く知らなかったので手探りで進めた。

まず、児童発達支援(療育)に通うためにはこども発達相談センターに通っていること市役所に手続きが必要なこと。

また、障害児支援利用計画案(セルフプラン)を書かないといけないのだがどこに頼んでも断られた。

しかし、どこに電話していいのかわらずに手探りで電話した船橋市のとらのこキッズさんが色々とご丁寧に教えて頂き心が救われた。

なんとか、書類を用意して児童発達支援(療育)には通う事ができた。

次は、療育手帳を手に入れる必要がある。療育手帳があると、その等級(障害の重さ)に応じて様々な支援が受けられる。

ただ、3歳未満の時は手帳があってもなくてもあまり変わらないが、3歳以上が有料になる公園とかでは使える。

またこれも市役所に相談すれば終わりじゃなくて、色々とたらい回しにされながら情報を集めて、資料を作成して提出する。

最後は、児童相談所に行って判定を受ける。

児童相談所もどこにあるかもわからずだったが、暑い夏の中何度も隣の市の市川市にある児童相談所に通った。

最初は親のヒアリング。次に担当者が子供の様子を見てくれる。そのうえで最後に医師の判断となる。

この医師から判断を受ける少し前に、自転車を買ってもらった。買ったばかりの自転車なので大事に使っていて、バッテリーは必ず取り外して持ち歩いていた。

市川の児童相談所の駐車場は炎天下で車内が高温になるので、バッテリーを相談所に持ち運んでいた。今考えるとシュールな絵ですが、左手にバッテリー、右てに子供の手をつないでいた。

そしていよいよ、最後の医師からの判断をもらうとき。どんな答えが返ってくるかはわかっていた。覚悟していいたが、実際に医師から「この子には障害があります」とはっきり言われると、涙がこぼれそうになった。

妻は号泣していた。

改めて偏見のない第三者の目から公平な判断として言わるとやっぱり受け入れるには辛い。子供の人生は親の創造を超えて自由に自分の意志で好きな人生を送れるようにするのが親の役割だったのが、この子にはもうある程度の幅の中でしか育てられない。
この子の人生は自由ではなく制限の中で生きて下さい、そう言われた気がして悲しい気持ちになった。

コロナ、猛暑、バッテリーを持ち歩く不思議な親子。

それが、先月までの話でいよいよ療育手帳が届いた。判定はB-1とあった。
先月の医師は「まだわかりませんが、今の所中度知的障害、中度自閉症」と言っていた。

その判断どおりの結果がやってきた。

手帳辛い判定結果が記載されていたが、その横には無邪気に笑う子供の写真が載っていてるのが辛かった。

先月の医師の面談の帰りに「バイバイ」と言っていたが、今月になるとその発話は一切しなくなっていた。

この3歳を境に、発語がどんどん消えていった。

運動面でいうと、成長をしていてジャンプするようになったりした。

それ以外にも人の背中を叩く(一種のコミュニケーション?)をやったりと、パパとは遊ばないで、パパは本、ママは遊び相手といった変わったコミュニケーションをとるようになっていった。

こどもちゃれんじぷち留年 2歳 9ヶ月

始まりました。終わりの始まりか、始まりの終わりかわからないが、言葉が消えていく謎の現象が開始された。

抱っこの時に「アッコ」と言っていたのが一切消えた。ただ、手を出すだけなった。

この頃、療育に通い始めた。毎週土曜日に通った。
その場にずっといることができない子なんですが、さすが先生はプロで次々と興味がありそうなおもちゃや遊びで場を持たせてなんとか遊んでいたので感動した。

通っている療育はいろんな先生を経験した方がいいという思想の元に毎週先生が変わるのだが、先生によってスキルに差があって一番のマネージャーの方は男性だったが、場慣れしてるのかいろんな遊び方がで子供も興味を引き出していたが、別の先生は全然ダメでモニター越しで見てるこっちが申し訳なさそうな気持ちなって疲れた。

ただ、保育園で母子分離ができいるので泣いたりしたりしなかったのは良かったが、そもそも親にもそこまで執着がないようにも見えた。

指差しをしないので、欲しいものがわからない。そこで、頂戴のサイン(手のひらを上に向けて手を重ねる動作)を教えたが、なぜか拍手になってしまう。

バイバイは良く出るようになった。言葉が少なくなってその代わりに頂戴の拍手が多く出るようになった。

この手を叩くのも一種のコミュニケーション。頂戴ができただけでも「初めて、自分の要求をクレーン(人の手を引っ張る)以外で示した」と夫婦で大喜びしていた。