いよいよこの頃になると自閉症とか知的障害とか、発達障害であることを確信しつつあった。
この時期は、精神的にかなり辛かった。率直に言って悲しかった。しかし、悲しみの根本原因がよくわからない。
妻は、私よりずっと前から苦しんでいた。
子供は元気にしてるのに、何故か死んでしまったかのような気持ちになった。
保育園を送った後も、一人でいると悲しくなった。
とても不思議な感じがした。子供が産まれた時に特に「偉い人なってくれ」とか「勉強が張ってくれ」とか全然考えてなかった。
無意識に、人は子供に自分に近い人生を歩むものだと仮定してるみたいだ。その仮定が根底から覆ったことが悲しいのか。
確かに、自分以外に人の人生なんて味わったことがない。聞いたり読んだりしたことと体験したことはやっぱり違う。
この悲しみは、同じような経験をしてみないと表現できない。近い感覚だと、やっぱり子供が死んでしまったような気持ちだ。
保育園でも、「うちの子は自閉症っぽいから、大変で」と言っても通じない。「言葉を貯めるっていうし」とか、「男の子ってそういうものですよ」とか。
どこかの作家が、「私は、作家だから大抵の事は想像でわかる。しかし、子育ての大変さは身に持って感じないとわからない」と発言したら炎上した。
それなら、障害児は尚更その苦労も想像できないと思う。
なので、子育てに関していうと近くに相談できるような人がいなくて、それがさらに精神的に追い詰められて行った。
今まで歩んできた自分の人生を鑑みて、おおよその将来やこれからするべきこと、起こることは予想できるが障害児となると、どうなるのか先が全く見えない。
その不安を埋めるために、妻はひたすらネットやYoutubeで情報を集めていた。私は人の将来なんてわからないのだからと、絶望も希望もしない、とりあえず受け止めようと考えていた。
どちらの考えが正解とは言えないが、妻から得る情報は貴重で的を得ていた。
ネットはどんどん不安を煽るような情報というか、そういう情報を与えられると人間は、さらに調べたくなるって依存する、情報麻薬漬け状態になってしまう気がした。検索エンジン側もそれが考慮されているかと疑いたくなるレベルであった。
しかし、身近に頼れる人や相談できる人がいないとやっぱり自分で調べて進めるしかなく、この時期は夫婦で苦しい時間を過ごしていた。